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わが国の消防組織のはじまり



ここでは、日本の消防組織に成り立ちについて紹介します。

頻繁に発生した江戸の火事

頻繁に発生した江戸の火事

江戸っ子の心意気を表す「火事と喧嘩は江戸の華」ということばには、市中で火事が多発することを憂いた「江戸の恥」が間違って伝わったとか、遠くから見物する町民が夜空に巻き上がる火の粉を「華」と評して洒落た、などの説があります。

当時の江戸は世界でも有数の人口密集地帯で、とくに江戸町民が住む地域は小さな木造家屋が密集していて火事が起きるとたちまち燃え広がったのです。明治44年から現在まで発行されている『東京市史稿 変災編』には、江戸開府から明治40年までの317年の間に発生した火災が記録されていますが、総数は873件で、そのうち大火とされた被害甚大なものは110件にものぼります。ちなみに、明治時代の大火の基準は、出火元から焼け止まりまでの直線距離が約1.63km以上です。

江戸の火災に備えた初めての官制消防組織

江戸の火災に備えた初めての官制消防組織

17世紀初めまでは「火事が起きれば、身近にいる者が消火にあたる」というのが通例でした。しかし1629年の三代将軍徳川家光の時代には、火災が発生するたび、幕府は参勤交代で江戸に出府している大名家へ消火活動を命じました。これを、公式文書(奉書)により任命された「奉書火消し」と言いました。

ところが、1641年に発生した大火(桶町火事)は奉書火消しだけでは鎮火できなかったため、1643年に尾張・紀州・水戸の御三家と16の諸大名家、さらに加賀藩に消火・防火の許可が与えられました。結成されたのが「各自火消し」で、いずれの組織も「大名火消し」と呼ばれて主に大名屋敷やその近隣の消防活動を担いました。

1657年には、江戸の三大火といわれる未曾有の明暦の大火(振袖火事)が起こり、城をはじめ町の大半が消失、死者は10万人近くにも及びました。幕府はこの火事を教訓にして飯田橋、市ヶ谷、お茶の水、麹町に火消し屋敷を設けて、旗本の支配役と百人を越す配下による「定火消し」を常駐させました。

定火消しは、主に江戸城の火事に備えた組織でしたが、町家の火事にも出動するなど、幕府によって設けられた初めての官制消防組織と言えます。火消し屋敷は、初期には4ヵ所だったものが最大で15ヵ所に増えました。屋敷内には、10m近い火の見櫓が建てられ、大太鼓と半鐘が吊り下げられて火事に備えたのです。

町人のための町火消しは消防団のルーツ

町人のための町火消しは消防団のルーツ

八代将軍徳川吉宗の治世に、江戸南町奉行の大岡越前守は、市中を火災から守るため「町火消し」の制度を作りました。越前が考えた町火消しは各町内で編成される、いろは48組による本格的な民間の消防組織でした。町火消しの精神は現在に受け継がれ、全国各地で活躍している消防団の原型となりました。

明治維新とともに定火消しは解体され、消防組織は警察機構の中に組み込まれて、その体制は大正時代から終戦まで続いたのです。1948年には「消防組織法」が制定されて、市町村が運営管理する現在の消防組織である自治体消防が本格的にスタートしました。