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救急医療制度のあゆみ



消防は、地域の医療機関と協力しながら、世の中の要求に応えるため、より機能的に活動できるような救急医療のネットワークを構築してきました。しかし、その歴史は決して平坦なものではありませんでした。

救急車第一号はデラックス

救急車第一号はデラックス

昭和6年に、日本で初めての組織的な救急業務を行なったのは、日本赤十字社の大阪支部です。そして2年後には、横浜市山下町の消防署で日本初の救急車が運用を始めました。その背景には、自動車の飛躍的な普及がありました。自動車の数が増えるのに比例して、交通事故による被害者が増加したのです。

さらに、大正から昭和の時代にかけて、軍需産業を中心とした重化学工業が発展したことも救急車登場の理由のひとつに挙げられます。工場では危険物を扱うようになり、そのためにいろいろな災害が工場で起こるようになりました。現場では大きな被害が出るようになり、ケガ人を素早く搬送する機能性が求められたからです。

登場したばかりの救急車には、高級車として知られるキャデラックが採用されていました。ボディの横には赤い線が1本入っていて、サイレンを鳴らしながら出動する姿に、当時の人々はすいぶん驚いたようです。続いて、救急車は、名古屋、東京、京都などでも運用されるようになりました。救急車が登場するまでは、急病人やケガ人を人力車で運んだり、医師の方から現場に駆けつけたものです。

では、救急業務を、なぜ消防が担当するようになったのでしょう。当時、消防は警察に所属する組織でした。その頃の警察には、いち早く24時間対応できる通信連絡網が整備されていました。同時に、警察は交通行政を担当していたため、事故の際に出るケガ人の搬送は医療分野にかかわる消防の役割だったのです。

救急車の急速な普及

日本の救急医療のあゆみは、相次ぐ戦争によって停滞してしまいました。その後、終戦とともに、国内ではあらゆる分野での復興が進められました。医療の世界も例外ではありません。そのため、しばらくは救急という発想が独自に考えられる余裕はありませんでした。

そんな混乱の中、昭和23年に消防は警察と分離されて消防庁が誕生しました。

やがて昭和30年代に入ると、ようやく戦後の混乱も一段落しました。世の中は本格的な繁栄の時を迎え、そんな時代を象徴するかのように街には自動車があふれ出したのです。そのとたんに交通事故が急増、昭和25年には4,000人ほどだった交通事故の被害者が昭和34年には1万人を超えてしまいました。

その頃、救急車はまだ全国に配置されていませんでした。交通事故の現場からは、事故処理にあたるパトカーのほか、タクシーや自家用車でケガ人が医療施設に運ばれることもありました。時には、霊柩車まで駆り出されたといいます。

そして、昭和38年に救急業務が法律で制度化を契機に、救急車は全国に普及し広く運用されるようになったのです。