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関東大水害(大正6年)



関東地方を2度襲った大水害は「関東大水害」と呼ばれています。そのうちのひとつ、1917年(大正6年)に発生した大水害はどのような経緯で発生し、どんな悲劇を生んでしまったのでしょうか。

対策が間に合わなかった災害

対策が間に合わなかった災害

ここでご紹介する1917年(大正6年)大水害の7年前、1910年(明治43年)には梅雨前線と台風2つの同時接近により大規模な水害が発生していました。河川の氾濫を主な原因として多くの被害を生んだこの災害を経て、国や自治体は治水を中心とした対策を進めていましたが、その作業が間に合わないうちに新たな危機が関東地方を襲うことになります。

1917年(大正6年)に発生したこの大水害は、高潮による被害が特に大きく、地域によっては「大正6年の大津波」として伝えられています。

災害の発端

災害の発端

同年9月に日本列島の南西方面、フィリピン東方で発生した台風が29日には大東島付近を通過し、静岡市、関東地方、東北・北海道を縦断しました。台風の通過に伴って各地では集中豪雨が発生し、台風による豪雨被害は中日本以東の広範囲に及び、合計では3府1道25県に被害をもたらしました。

その中でも大きな被害に遭ったのは関東地方であり、特に高波による高潮被害が人々を襲いました。

被害全体の規模

被害全体の規模

極めて広範囲に被害が及んだ1917年(大正6年)の台風では、合計で死者・行方不明者が1,301人、家屋の全壊または流出が約4,600戸、床上浸水の被害にあった家屋は約195,000戸にも及んだと伝えられています。

東京府(当時)を中心に関東地方で特に大きな被害が発生し、神奈川県や千葉県でも多くの被災がありました。高潮は2度にわたって湾岸部を襲い、多くの人々の生活を壊していったのです。

被害が大きくなった原因

被害が大きくなった原因

台風が通過していく中で不運だったのは、台風の東京湾接近時点で満潮の時刻と重なってしまったことです。台風により発生した高潮は天文潮とも重なり大規模な高潮被害が発生することになり、東京府(当時)だけでも死者・行方不明者の数は563人を数えたとされています。

また、当時の経済活動が東京湾・横浜港を中心に行なわれていたことも悲劇に拍車をかけました。多くの産業が拠点を構えていた周辺には多くの家屋や建物があり、そこに大規模な高潮が襲ったことになります。

総括とその後の対策

総括とその後の対策

1917年(大正6年)の大水害が多くの悲劇を生んだ原因となったのは、台風通過と満潮のタイミングが重なったことでした。この2つが重なることは現代でも珍しいことではなく、異常気象という程のものではありません。

当時の日本は急速な近代化の最中にあり、東京府(当時)を中心とした関東地方に産業が集中していた時代でもありました。しかし、東京府(当時)は東京湾の奥にある地域であり、もともとは干拓地を埋め立てた海抜が低く水害に弱い地域であることが重なり、たくさんの悲劇を生んでしまう結果になりました。当時の防災設備は現代とは比べ物にならないレベルであったとは言え、産業や人口が集中していると言うことが自然災害に対してどれだけ危険であるか、考えさせられる災害です。